朝、家を出る前。
時計は七時五十分を少し過ぎたくらいだった。
いつも通りトイレを済ませてから家を出る。
今日は歓送迎会がある。
帰りは遅くなるだろうな、とその時点でわかっていた。
だから本当は、仕事中に一回くらいは行っておこうと思っていた。
会社の地下にある、人がほとんど来ないトイレ。
私が見つけた“保険”みたいな場所。
昼休みを少し外せば誰とも会わないし、音も気にならない。
今までも何度か、どうしてもきつい日に使ったことがある。
今日もそうするつもりだった。
――午前中の時点では。
でも、そういう日に限って仕事が立て込む。
確認、電話、急な対応。
席を立こうとしたタイミングで話しかけられて、気づけばまた時間が過ぎていく。
「あとで行こう」
そう思っているうちに昼休みが終わる。
午後になれば少し落ち着くと思ったのに、今度は人のタイミングが悪かった。
地下のトイレに向かおうとしても、誰かが近くにいる。
廊下で同僚と鉢合わせたり、エレベーターに人が乗ってきたり。
それだけで、足が止まる。
「……また後でいいか」
そうやって見送ってしまう。
気づけば夕方だった。
その頃にはもう、かなり意識していた。
座っているだけでも、存在感がある。
姿勢を変えるたびに、「あ……」と意識が向く。
でも、まだ耐えられる。
歓送迎会は十九時から二十一時。
二時間なら、なんとかなる。
そう計算していた。
実際、始まってしまえば周りに合わせて笑ったり話したりして、意識が逸れる瞬間もある。
ただ、完全には消えない。
グラスを持つたびに少し迷う。
これ以上飲むと危ないかもしれない。
でも、断り続けるのも不自然で、少しずつ口をつける。
周りは途中で普通に席を立つ。
「ちょっとトイレー」
「私もー」
そんな軽い感じで。
私は、その輪の中で笑いながら、ただ座っていた。
「大丈夫?」
そう聞かれても、「うん、平気」と返す。
本当は、平気なんかじゃない。
でも、今さら行けなかった。
ここまで我慢してきたのに。
今さら「行きたい」と認めるみたいで。
二十一時。
解散。
その瞬間、少しだけ安心した。
「あと三十分」
家まで帰ればいい。
それだけ。
でも、気が緩んだせいか、そこから急にきつくなる。
駅まで歩く振動。
電車の揺れ。
一つ一つが、さっきまでより重い。
「……まずいかも」
頭の中で、その言葉が何度も浮かぶ。
それでも、人前では普通に歩く。
急いでると思われたくなくて、変に平静を装ってしまう。
最寄り駅に着いて、マンションへ向かう頃には、かなり限界に近かった。
エレベーターのボタンを押す。
扉が閉まる。
――誰もいない。
それを確認した瞬間、もう耐えきれなくなって、私は小さく息を漏らした。
反射的に前を押さえる。
足も自然にクロスしていた。
「やば……っ」
声にならない声が漏れる。
さっきまで必死に保っていたものが、一気に崩れそうになる。
階数表示が、遅い。
一秒が長い。
早く。
早く。
ようやく扉が開いた瞬間、ほとんど駆け込むみたいに部屋へ向かった。
鍵を開ける手が震える。
玄関に入って、靴を脱ぐ余裕もなく、そのままトイレへ。
ドアを閉めて、鍵をかけた瞬間。
全身から力が抜けた。
「……っ、間に合った……」
本当に、ギリギリだった。
あと少し遅れていたら危なかったと思う。
しばらくその場から動けなくて、ただ深く息を吐いた。
外ではずっと平気な顔をしていたのに。
家のトイレに座った瞬間だけ、自分がどれだけ限界だったのかを思い知らされる。
静かな部屋の中で、私は一人、ぼんやり考える。
――やっぱり。
私は、普通じゃないのかもしれない。

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