別の日のことだった。
その日は午前中からずっと忙しく、新入社員の子も、席を立たずに仕事を続けていた。
説明して、作業してもらって、確認して。
修正点を伝えて、またチェックする。
そんな流れを繰り返しているうちに、あっという間に昼休憩になった。
その子は「お昼休憩行ってきます」と席を立つと、まず真っ先にトイレへ向かっていた。
その後同期と合流してお昼ご飯を食べに行ってたので、
たぶん、午前中ずっと我慢していたんだと思う。
私はその後ろ姿を見ながら、自分の新入社員時代を少し思い出していた。
先輩が席を立たないと、自分も行きづらい。
空気を読んでしまう。
特に新人の頃は、“仕事を止める”ことへの遠慮が大きい。
午後も、仕事はずっと続いていた。
十三時から、打ち合わせと確認作業。
資料の修正に、細かいチェック。
気づけば十六時を過ぎていた。
その頃から、私は少しずつその子の変化に気づき始める。
足をギュッと閉じる回数が増えている。
座り直したあと、無意識みたいにお腹や太ももをさする仕草。
集中しようとしているのに、どこか落ち着かない感じ。
私は横目でそれを見ながら、静かに察していた。
――たぶん、トイレ行きたいんだろうな。
でも、こちらから「行ってきたら?」と言うのも違う気がした。
それを指摘すること自体が恥ずかしいかもしれない。
私自身、もし同じことを言われたらたぶんかなり嫌だと思う。
だから私は、気づかないふりをした。
それに子供じゃないんだし、本当に行きたいのなら自分から言ってくると思う。
気づかないふりをして普通に仕事を続ける。
「この資料、ここ修正お願い」
「確認終わったら持ってきてね」
いつも通りの声で。
その子も、「はい」と返事をする。
でも十七時を過ぎる頃には、さらに様子が変わっていた。
顔色が少し悪い。
返事もどこか硬くて、余裕がなく見える。
それでも、その子は席を立たない。
資料を見つめたまま、何度か小さく息を吐いている。
そして少し沈黙したあと、本当に言いづらそうに口を開いた。
「あの……」
小さな声だった。
「……すみません」
その時点で、私はなんとなく察していた。
でも、その子はさらに数秒迷ってから、恥ずかしそうに視線を下げる。
「お手洗いに行っても、よろしいでしょうか……?」
って聞いてきた。
私がすぐに返事をしなかったので、続けて。
新入社員の子が本当に申し訳なさそうに。
「……我慢できなくて」
耳まで少し赤くなっていた。
そこまで言って、一度言葉が止まる。
その瞬間、胸の奥が少しだけ苦しくなる。
たぶん、この子はずっと我慢してた。
私が行かないから、行き出しづらかった。
そんな空気を作ってしまっていたんだと思う。
だから私は、できるだけ普通に返した。
「うん、どうぞ」
それだけ。
でも、その言葉を聞いた瞬間、その子の表情が少しだけ緩んだ気がした。
「すみません、ありがとうございます……!」
そう言って席を立つ。
そして、そのままかなり早足で廊下へ向かっていった。
ほとんど駆け出しそうな勢いで。
私はその後ろ姿を見送りながら、パソコンの画面に視線を戻す。
静かになった席を見ていると、なんとも言えない気持ちになる。
たぶん私は、普通の感覚が少し麻痺している。
我慢することに慣れすぎてしまっている。
でも、この子は違う。
お昼休みにトイレに行ってるので三時間おきにトイレに行くのに
私に合わせて、十八時まで我慢している。
この二時間はずっと我慢していることになる。
尿意を意識してから二時間我慢し続けて限界になって言い出すのは恥ずかしかったと思う。
それから十分くらいして、その子は戻ってきた。
さっきまでの落ち着きのなさが嘘みたいに、表情がかなり柔らかくなっていた。
「お待たせしました」
少し恥ずかしそうにそう言って席に座る。
私は「大丈夫だよ」と返しながら、心の中で小さく思う。
――私も、本当はああやって素直に言えれば楽なんだろうな、と。
でも、トイレに行くことは恥ずかしいから選択肢には上がらない。

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